施設

野間大坊 詳細情報 口コミ・レビュー一覧

名称
野間大坊 
施設説明
野間大坊は、愛知県知多郡美浜町にある真言宗豊山派の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。正式には鶴林山無量寿院大御堂寺と称し、宗教法人としての公称は「大御堂寺」である。寺がある美浜町野間は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓がある。
所在地
〒470-3235 愛知県知多郡美浜町野間東畠50
営業時間
電話番号
レビュー件数
664
注目キーワード
価格帯
該当ランキング

※当施設情報は2025年6月2日現在にGoogleMAP上で表示されている情報を基に更新しております

総合評価:
78.21pt. / 100pt. 46位 / 64件中
Google評価4.0 / 5.0 ( 80.0pt. )
49位 / 65件中
評点合計53.0 / 65.0 ( 81.5pt. )
48位 / 64件中
高評価率9 / 13 ( 69.2pt. )
49位 / 64件中
5つ星評価率5 / 13 ( 38.5pt. )
45位 / 63件中
非低評価率13 / 13 ( 100.0pt. )
9位 / 64件中
非1つ星評価率13 / 13 ( 100.0pt. )
9位 / 64件中
ランキング推移

レビュー投稿

20文字以上でご記入ください:0文字

運営が内容を確認後にページ反映となります。
ページ反映時にはメールにて通りをお送りします。

レビュー一覧

当サイトでは各施設に投稿されている可能性のある『荒らしや悪質なコメント』を排除する目的で、星評価1に相当する個別レビューは掲載しておりません。但し、星評価1が投稿された場合は『件数としてはカウント』して当サイト独自評点を算出しております。予めご承知おきくださいませ。

評価:
投稿日:1ヶ月前
知多四国で行きました。
0
評価:
投稿日:1ヶ月前
正式は鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざんむりょうじゅいんおおみどうじ)です。

第40代天武天皇の時代に役小角が建立したといわれる古刹です。

第45代聖武天皇の時代に行基により中興され、その後、空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き、庶民の幸福を祈ったといわれています。

また、この地は源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓があります。

源義朝は平安時代後期から末期にかけての武将で、鎌倉幕府を開いた源頼朝が子にいます。

保安4年(1123)に源為義の長男として生まれましたが、父の為義は自身の問題行為によって白河院の信頼を失い、官位は低迷していました。

そのため、義朝は少年期に父に連れられ都から東国(関東地方)へ下向し、安房国、上総国に移り、当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれました。

東国で成長した義朝は南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して三浦義明・大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収めました。

高祖父の頼義以来ゆかりのある鎌倉に館を移しました。

義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、長男の義平に東国を任せて都へ戻りました。

久安3年(1147)に正室の由良御前との間に頼朝を設けました。

仁平3年(1153)、31歳で下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼ねました。

この急激な抜擢は寺社勢力の鎮圧や院領支配のため、東国武士団を率いる義朝の武力を必要とする鳥羽院との結びつきによるものと見られ、それは摂関家を後ろ盾とする父・為義らとの対立につながりました。

久寿2年(1155)、父・為義の意向を受けて東国に下向し、勢力を伸ばしていた次弟を討ち、坂東での地位を固めました。

翌年7月からの保元の乱では崇徳院方についた父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いて参陣しました。

平清盛と共に作戦の場に召された義朝は夜襲による先制攻撃を主張し、頭をかきむしりながら信西と共に躊躇する関白・藤原忠通に対して決断を迫りました。

攻撃の命が下ると、義朝は官軍として戦えることに喜び勇んで出陣し、戦況を逐一報告するなど帝方の中核となって戦い、東国武士団を率いて戦功を挙げました。

敗北した為義は義朝の元に出頭し、7月30日、義朝は父・為義と弟らを処刑し、出世しました。

しかし、三年後の平治の乱において、その潮目が変わりました。

平治元年12月9日(1160年1月19日)、義朝は藤原信頼らと後白河院の信任厚い信西らがいると目された三条殿を襲撃しました。

乱の原因は後白河院政派と二条天皇親政派の対立で、その両派に反信西グループがいたことで、それらを後白河院がまとめきれなかったためといいます。

藤原信頼は義朝が南関東で勢力を拡大していた時の武蔵守で、その後も知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大や下野守への除目が信頼の支援があったためといいます。

信西は倒れ、信頼が政局の中心に立ったものの後白河院政派と二条天皇親政派は対立が始まりました。

そして今度は信頼と二条天皇親政派との反目が発生し、一転、信頼・義朝らは賊軍となって討伐の対象となり、ついに12月27日(2月6日)に京中で戦闘が開始されました。

平家らに兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅し、信頼を見捨て、子の頼朝らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下りました。

しかし、その途上で度重なる落武者への追討隊との戦闘で、従者が次々と命を落とし、一行からはぐれた頼朝も捕らえられました。

馬も失った義朝は裸足で尾張国知多郡野間にたどり着き、年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せました。

しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害されました。享年38。

京を脱出して3日後のことでした。

伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされます。

義朝の墓は終焉の地である野間大坊の境内にあり、伝承にちなんで多数の木刀が供えられています。

また、境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると、池の水が赤く染まると言う伝説があります。

父や弟たちを滅ぼして地位を確立してからわずか3年で死を迎えましたが、義朝が東国に築いた地盤と嫡男の頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となりました。

『吾妻鏡』には義朝の墓に関する次のような記述があります。

平康頼は尾張守として任地にあった時、野間庄にある義朝の墓が守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田三十町を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせた。

義朝の子である頼朝はこの功績に応え、康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたという。

建久元年10月25日(1190年11月24日)、上洛途上の頼朝が、この日、野間庄にある父・義朝の墓に詣でたといい、荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な寺が建ち、供養されていることに感心した。

寺伝ではこの時に頼朝が父の菩提のためを寄進を行い、伽藍を整備し、自らの守本尊である地蔵菩薩像を安置したという。時代が下ると、豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受けてさらに発展した。

現在、野間大坊には頼朝が造営させたという大門や、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進による梵鐘などが現存し、境内には義朝の墓のほか、寺を整備した平康頼の供養塔等があります。
0
評価:
投稿日:1ヶ月前
源頼朝と縁深い場所ということで訪問しました。
なんとも言えない空気感が漂っています。霊感強い方は何かを感じるかもしれませんね。私と嫁でさえ感じてしまいます。
歴史好きの方は楽しいかと思います。
写真を撮ると何か写りそうなのでやめときました(-_-;)
0
評価:
投稿日:2ヶ月前
0
評価:
投稿日:2ヶ月前
0
評価:
投稿日:2ヶ月前
源義朝暗殺に関する講和が良かった
0
評価:
投稿日:2ヶ月前
0
評価:
投稿日:3ヶ月前
0
野間大坊がランキングされている他のオススメ記事
愛知県内の寺院 口コミ・レビュー 高評価ランキング|2025年5月19日更新
知多の寺院 口コミ・レビュー 高評価ランキング|2025年5月19日更新
TOP